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36.「弁慶」時速二十キロで登場|37.石炭搬出のにぎわいも遠く|38.夢と思い出を運ぶ|39."汽笛一声"に歓声と涙|40.札幌最北の駅|41.札幌の味を育てて一世紀|42.鉄道高架で進むまちづくり|43.全国初のディーゼル今はなく
「馬車?あんた、ぬかってぬかって。とても通れなかったよ。何せ、空馬車でもひっくり返るんだから」。
雨が降ると一面の泥沼。水たまりには魚がプカプカ。明治末の石狩街道(国道231号)はおよそ道路とは言えなかった。「かえって冬の方が良かった。馬そりが走れたから」と石狩町の吉田武雄さん(78)。
茨戸―札幌間に何とか陸路が確保されたのは明治44(1911)年。札幌軌道株式会社が馬車鉄道の運行を開始したのである。それまでは馬の背に荷をつける駄送(だそう)に頼っていたのだから馬鉄はずいぶんとハイカラなものであったろう。
当時の北海タイムス(現・北海道新聞)は早速同乗記を掲載した。「製麻会社前停車場から鉄路約8哩(マイル)(約12キロ)を1時間と20分。線路の動揺さらになく、一直線平坦の線路とて乗心地ことによろし」。
「客車1両とエンバク70俵を積んだ台車を2両くらい引かせました。雨が降るともうダメ。小さな坂でもスリップして動かない。そんなときはお客さんに押してもらいました」と車掌をしていた三上由太郎さん(75)。
馬鉄はお客や荷物のほか、子供たちの夢や思い出も運んだ。北国のさわやかな夏を呼ぶ札幌祭り。それはお盆と正月とを一緒にした以上のものだった。何しろ新聞でさえ半月以上も前からお祭り記事一色。神主やおみこしを担ぐ人へのインタビューから山車(だし)の紹介、夜店、見せ物の案内まで連日トップニュース。そんな雰囲気が子供心を駆り立てずにはおかない。
「客車の定員は18人。でももう50人以上も乗って超満員でした」石狩町の吉田さんも、胸躍らせながら馬鉄に乗り込んだ1人である。
大正初め、北6条付近の馬鉄。道端の俵はエンバク
昭和初期、終点茨戸の「川端駅」ガソリンカーが見える。右端が三上さん
客車や台車を2、3両引いての運行は馬にとって重労働。沿線で農作業をしている馬よりもやせ、毛のつやも悪かったという。
そこで大正7(1918)年、開道50周年記念博覧会を機にガソリンカーにバトンタッチ。スピードアップを図った。
馬力はアップしたがレールは馬鉄の時と同じ。少しスピードをあげると脱線したという。そんな時は乗客と一緒に車を持ち上げてレールへ戻し、また走り続けた。古き良き時代である。
このガソリンカーにも引退の日がやってきた。国鉄札沼線のレールを引くために、軌道を撤去しなければならなくなったのである。
こうして4半世紀にわたって幹線輸送の大役を支えたレールは昭和9(1934)年、石狩街道から消えていった。
ゴトン、ゴロゴロと1日に10往復していた馬鉄。今は同じ道を32,000台の車が駆け抜ける。
(「広報さっぽろ北区版昭和59年7月号」掲載)
※石狩町は平成8(1996)年、石狩市に変わっている。
(平成19年3月加筆)
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