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36.「弁慶」時速二十キロで登場|37.石炭搬出のにぎわいも遠く|38.夢と思い出を運ぶ|39."汽笛一声"に歓声と涙|40.札幌最北の駅|41.札幌の味を育てて一世紀|42.鉄道高架で進むまちづくり|43.全国初のディーゼル今はなく
石炭運搬に活躍した馬車(足立英治さん蔵)
昭和29(1954)年ころの札幌駅と北側周辺(国鉄北海道総局蔵)
大正時代末ごろから、札幌駅北口周辺は、本道石炭産業の隆盛とともに活気を見せ始めた。
各家庭ではそれまでの主要燃料であったまきに替わって石炭が登場し、「カマダ」「フクロク」などの貯炭式ストーブが普及し始めた。
「ぬれた石炭を持ってきて、こんなものが燃えるか、とっとと持って帰れ!と親爺(おやじ)が馬車追いとやりあってましたよ」と近くに住み札幌駅北口の変遷を見守ってきたという真鍋真次郎さん(76)は昔かたぎだった父親を懐かしむ。
昭和に入り、駅北側には石炭高架線(石炭運び出し専用線)が敷かれ、北海道炭砿汽船会社の事務所や10数カ所の売炭所が軒を並べるようになった。うず高く積まれた石炭の山が一面に広がり、その中を板囲いした馬車が行き交う。
「ハイドォードォー」と馬車追いの威勢よい掛け声が飛び交っていた。
馬車追いは、馬方ともいい、かつては陸上運送の花形であった。馬車追いには、馬車屋といった運送店に勤め、馬追いと荷物の積み降ろしに従事していた者(今でいうなら運送会社の社員)と、馬と馬車を所有して、個人で問屋などと契約し、荷物を運搬するもの(現代なら、ダンプカー、トラックを持っている個人事業主)とがあった。
馬車追いのいでたちは先が細くなったズボンに地下足袋(じかたび)を履き、ほまいかけ(まえかけの一種)をし、はんてんを羽織っていたという。はんてんは、彼らの自慢の種であり当時10数社あった売炭所にそれぞれ"格"があったため、その家号を競い合ったようである。
当時の北口付近の状況を岡田東吾さん(75)は「春先の道路は、石炭の粉と馬ふんが入りまじった泥んこで歩くのにひと苦労でした。しかも乾いた日が続くと、風に吹かれて舞い上がり、札幌名物"馬ふん風"なんて生易しいものじゃなかった。家の障子は黒茶けて、よく張り替えたものだよ」と苦労話を続ける。
札幌駅における列車の増発に伴い貨物の取り扱いが桑園、苗穂、東札幌へと分散され、北口周辺から石炭の山が消えていったのは昭和33(1958)年のこと。これと同時にオモテと符号が記された石炭専用貨車や80台もの馬車が往来し、活気に満ちていた北口周辺も徐々にその形態を変えていった。
近年、北方面の著しい発展に伴い、昭和38(1963)年には札幌駅北口開設と相まって清新な広場ができた。さらに南側への新たな通路として地下連絡通路も設けられるに至った。
今、事業が急がれている鉄道高架化。札幌駅北口周辺もさらに大きく変わろうとしている。
(「広報さっぽろ北区版昭和53年6月号」掲載)
※昭和63(1988)年に高架化が完成。平成10(1998)年には札幌駅北口に駅前広場が完成し、市民や観光客が憩いの場として利用している。
(平成19年3月加筆)
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