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36.「弁慶」時速二十キロで登場|37.石炭搬出のにぎわいも遠く|38.夢と思い出を運ぶ|39."汽笛一声"に歓声と涙|40.札幌最北の駅|41.札幌の味を育てて一世紀|42.鉄道高架で進むまちづくり|43.全国初のディーゼル今はなく
明治16(1883)年ころ偕楽園前(北6西8)を走るモーガル機関車(北大図書館蔵)
北から撮った明治16(1883)年ころの札幌駅。西部劇でおなじみの機関車も見える。煙突と牛よけが特徴(北大図書館蔵)
紅白の灯に迎えられて「弁慶」が登場したのは明治13(1880)年11月28日。そのいでたちは紺青の胴体、動輪には白く縁どりした濃い紅を塗り、ヘッドライトは金色の細じま入りの赤。精いっぱいの化粧をした開通式での晴れ姿であるのだろうか。
世はまさに文明開化の時代。近代化路線をひた走る日本にはエネルギーの確保が急務であった。札幌―手宮間に日本で3番目の鉄道が敷かれたのも幌内から石炭を輸送するためである。
アメリカ製の機関車やレールを積んだ帆船が小樽に入港したのはその年の9月末。手宮から札幌に向けてレールが延び始めた。「11月までには札幌に着きたいものです。冬には工事ができませんから」北海道の鉄道産みの親クロフォードが、黒田開拓使長官にあてた報告書のとおり2カ月かからなかった。今では考えられない猛スピードである。それも道理、人や馬車が通っている道路の真中に枕木を並べ、レールを留めただけ。まるで工事現場のトロッコが走るような線路であった。
煙を吐きながら走る汽車は一大驚異であった。「はげた頭さ線香3本立て母さん出て見ろ陸蒸気(おかじょうき)」当時の流行歌にあるように大人も子供も押すな押すなと見とれていたという。
工事による悲劇もあった。この鉄道に使う枕木の納入を請け負ったのは中川源左衛門。市内でも有数の建設業を営んでいたが今のお金で4億円以上もの損をして破産してしまった。寸法が「僅(わず)かに一分」狂っているとの理由ですべてはねられてしまったからである。一分とは3ミリになる。
資材調達にアメリカへ行っていたクロフォードが戻り、そう厳重にする必要はないとはねられた大部分を採用したという。中川にとっては遅すぎる帰国であった。
市内でレールが敷かれたのは空知通、現在の北6条。この道路が札幌の最北端であった。その時の人口8000人。小樽が10,000人、函館は36,000人のころである。
さて、開通式の「弁慶」。黒田長官はじめ役人、あるいは町内会代表など数百人を乗せ、午前8時30分発車。正面に飾った日米の国旗をたなびかせながら手宮までを往復。途中、「弁慶」の雄姿をひと目見ようとした群衆が列車について走る騒ぎもあったが無事に初舞台を終えた。
列車のスピードは時速20キロ。自転車と同じようなものであったが「僻邑(へきゆう)未開の当地においてこの盛況を見る。誠に我々人民の幸福といふべし」汽車開通式の模様を伝える札幌新聞はこう結んでいる。
(「広報さっぽろ北区版昭和60年2月号」掲載)
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