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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第3章:開拓時の人々 > 22.素手で熊と戦った開拓農民-北区のヒグマ

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更新日:2011年2月7日

22.素手で熊と戦った開拓農民-北区のヒグマ

エピソード・北区

第3章:開拓時の人々

20.蝗(こう)虫との戦いの記録21.端午の節句、正午ころ出火22.素手でクマと戦った開拓農民23.大地とともに生きる

22.素手でクマと戦った開拓農民-なめし爺さんと呼ばれ有名でした-

北区のヒグマ

 

素手でクマと戦った開拓農民1

五代目植野信治君(鴻城小6年)の絵

素手でクマと戦った開拓農民2

新琴似小「防風林の部屋」で。今の子供たちにとってクマは遠い世界の話であろうか

「オーイ、火をかけるゾー」クマザサや灌(かん)木がパチパチと音を立て燃え上がり、みんなの顔を赤く照らし出す。どの顔にも開拓魂が満ちあふれている。
明治30年代、篠路村山口部落(現・篠路町拓北)での開墾風景である。
当時の開墾は、原野を切り開き畑にする労苦に加えて、生命にかかわる危険と隣り合わせ。クマと出くわすのである。部落の人たちにとって開墾や畑作には村田銃が必需品であったという。
北海道では親しみを込めてオヤジと呼ばれているクマ「羆(ひぐま)」。しかし、日本にいる動物の中で最も大きく凶暴だといわれている。そして開拓が進み、多くの野生動物が減少し、滅び去った中でも、ヒグマは持ち前の雑食性、適応性を発揮し、環境の変化にもかかわらず、現在までの消息数に大きな減少はないといわれている。

突然後頭部に一撃

「どうやらオヤジが近くにいるらしい。きのうも足跡を見かけたし、危なくておちおち開墾もできやしない」ある日、山口部落の人たちが集まり、クマを撃ち取る話がまとまった。
村田銃を手に開墾地からクマの足跡を追う。突然、その一人が後頭部に強い衝撃を受け、ワァーと振り向くと、2メートルもあろうか、ヒグマが仁王立ちで迫る。「殺(や)られる!」全身に戦慄(せんりつ)が走る。明治34(1901)年のこと、植野浪治さんは素手でクマと戦う羽目になる。
愛媛県出身の浪治さんが篠路村山口部落に入植したのは明治23(1890)年。襲われた時の模様を次のように語り伝えている。「背後からいきなり襲われたので、銃を落としてしまいクマの懐に組みついた。赤黒い大きな口が迫り、夢中で手を突っ込み、舌を引っぱり出そうとしたが、また背中に一撃を受けたようだ」「"ダーン"という音と共にクマの力がぬけていくのが分かった。周りにいた二人が村田銃を手に近づいて来るのを感じながら、助かったと思った。途端に手や頭、背中の傷が急に痛みだしたよ」と。当時、隣に住んでいた高橋喜一さん(76)が浪治さんの言葉を今に伝える。
浪治さんの無事を祝い、部落総出でクマの肉を分かち合って食べ、残った分は丘珠方面へ売りに行ったともいう。
大正13(1924)年、浪治さんが81歳で亡くなってからも植野家は代々農業を引き継ぎ、4代目信義さん(42)は「浪治爺(じい)さんが素手でクマと戦ったことは、親爺(おやじ)からも聞いています。頭の傷から"なめし爺さん"と呼ばれ有名だったそうです」と伝える。

オヤジは手稲山から?

新琴似・屯田・篠路にクマが出没したのは明治末期まで。開拓者が苦労して作った麦やトウモロコシを目当てに、手稲山や当別・江別方面から森林伝いにやって来たらしい。
開拓史上、忘れることのできないヒグマ。今でも田園風景をとどめる拓北の地であっても、クマと人間の格闘は予想だにできない事件である。
現在、北大植物園にある博物館には、幾頭かはく製のヒグマが置かれている。それぞれが、いろいろなエピソードをもつ凶暴なオヤジたちである。

(「広報さっぽろ北区版昭和53年5月号」掲載)

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