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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第3章:開拓時の人々 > 21.端午の節句、正午ころ出火-北区大火災

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更新日:2011年2月7日

21.端午の節句、正午ころ出火-北区大火災

エピソード・北区

第3章:開拓時の人々

20.蝗(こう)虫との戦いの記録21.端午の節句、正午ころ出火22.素手でクマと戦った開拓農民23.大地とともに生きる

21.端午の節句、正午ころ出火-火が地中から噴き出した-

北区大火災

 

端午の節句、正午ころ出火

消防用蒸気ポンプソリ(明治44(1911)年北星学園大学蔵)


明治の札幌で一番恐ろしいもの。それは火事だった。「最も危険なるは野火なり。草小屋に火事あれば直ちに野火となる。しかして野火となればどこまでも延焼す」当時の建築業中川源左衛門は語っている。
泥炭地が広がる北区の場合、その危険は一層大きかった。事実、明治の大火の記録が残っている。

手稲下ろしの強い風

木々の芽がふくらみ始め、こいのぼりが風に泳ぐ札幌の春。とは言え原野にはまだ枯れ草がたくさん残っている。このころが一年で一番空気が乾燥し、風が強い季節である。
新琴似、屯田に屯田兵が入植して間もない明治24(1891)年5月5日、端午の節句。この日は手稲下ろしの強い風が吹いていた。これは北区では南西の風になる。「札幌で南西の風が吹くと、気温が上がり、空気は乾燥するんです。火事と非常にかかわりの深い風ですね」とお天気相談所。加えて当時の家屋は木造、屋根はかやぶき。大火災の条件は気味が悪いほどそろっていた。
昼過ぎ、区内数カ所から白煙が上がった。野火である。それからわずか数時間後には煙は北区全域を覆っていた。
烈々布村、今の太平へは南西の方からやって来た。午後3時ごろ、煙は空に満ち、火はまるで水が流れ下るような勢いで押し寄せてきた。村では村民総出で消火活動を繰り広げた。消火といっても消防ポンプ車などない時代。井戸から水を汲み上げて掛けたり、道路や川で防火線をひき、何とか延焼を食い止めようとするほかなかった。機械があったとしても手押しポンプ程度では文字通り焼け石に水だったであろう。水を飲んだり食事をとるのも立ったまま、不眠不休の消火活動にもかかわらず火は衰えなかった。原野から木へかけ登り、さらに家へ飛び移ってしまった。
屯田では創成川沿いにやって来た火と、新琴似の西、南西原野方向からの火と東西から挟さまれる形になった。兵村火災の報を受け、第1大隊長本田大佐と北村中尉が駆けつけた。新琴似村まで来たところ「前路猛火一面に起こり、風すさまじく熱灰砂れきをまじえて飛び」進むことができなかった。火が風を呼んだのか猛烈な風で吹きつぶれる家も出るほどだった。大佐らが何とか屯田にたどりついたのは午後3時ごろ。「火勢猛烈、暴風度を加え、あたりの茂林中の生樹(なまき)も見る見る将棋倒し」となるような状況だった。

地中を伝わる

「火が土の中から吹き出したそうです。泥炭地なので火が地中を伝わって広がったんでしょう」屯田の栗生亨さん(83)。「ここなら大丈夫と家財道具を置いておいたら火が吹き出し、あわてて動かしたらまた火が出て・・・。結局、3回も動かした人がいたそうです」一般の家より立派だったとは言うが木造板壁、まさぶきの屯田兵屋。火に対する備えは全くなく、10世帯が焼け出された。しかし「現役だったのですぐ建て替えてくれたそうです」この点屯田兵は恵まれていた。一般の農家では家、家財道具のほか植え付けた農作物、種子まで失ってしまった。全くの無一文になった訳である。
このときの火および風による損害は「レッレップにて焼失民屋35戸播種(はしゅ)せる耕地凡(およそ)10町歩潰家(つぶれや)7戸、新琴似村にて焼失民家7戸播種せる耕地3町歩、篠路村(屯田)にて屯田兵屋焼失10戸、右3ヶ村にまたがり焼失せし原野耕地の面積は概ね2里(8キロ四方)」と北海道毎日新聞は伝えている。この数字は家と家との間が見えないほど離れている時代のこと。今なら何万という家が燃え、10万人以上が被災する規模である。
被害者は移住後数カ月から3年と生活の基盤も定まらない者が多く、この地での生活をあきらめ土地を離れる者が続いたという。北区の開墾に大きな障害となった大火災。その原因はいまだ不明である。

(「続・北区エピソード史(昭和62年3月発行)」掲載)

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